「ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話」に対していろいろな論議が起こっている。
いろいろな意見があるが、「web」と「現実」の違いについて述べているものが多い。そうしたものをふまえた上での二次意見で申し訳ないんだが。
「あちら側」と「こちら側」(from「ウェブ時代を行く」)の一番大きな違いは、質量だ。「こちら側」には、あらゆる情報に直接触れられる質量がある。
脳ミソにプラグぶっ差して快楽中枢を刺激し続けられるならそれでもいい、不労所得さえあればずっとPCの前に座っていたい、そう思ってた時期が僕にもありました。残念ながらそこまで単純じゃなかった。
「あちら側」に脳ミソや経験を託すと、実際に触れている空気が動かなくなる。
「ニートの女の子」が感動して泣いたのは、目の前にある絶対的な「質量」を、身体で感じたから。情報が形として目の前に氾濫している。
PC内部での経験は、脳ミソ的でしかない。実体験に基づいていなければ、感動も触感も想像で作られた表面的ものでしかない。内部から自生したものでなく、外から与えられたものだ。
実際に身体で感じるから、想像の翼は広がっていくのだ。本屋に入ったとき、感じる空間の感触。外から中に入ったときの空気の変化。新しい本の臭い。静かなざわめき。本を選んでいる人、立ち読みしている人、整理している人、そうした人それぞれの想いが自然と発散され、その空間の空気を作り上げる。それだけは、amazonでは絶対に作り出せないものだ。
視覚、そしてこれから進化して聴覚、嗅覚、触覚それぞれに訴えかけることができたとしても、そこにいる人々の雰囲気から自然にかもし出される空気は作れない。
「あちら側」の経験はどこまで行っても脳ミソ的。「こちら側」の身体感覚があるからこそ、初めて広がる世界。人の感覚を刺激する文章やコンテンツが発信されていたとしても、受け取る側にそのコンテクストがなければ響かない。
まず歩く。動く。触れる。自分の脳ミソだけで完結しているわけではない「世界」を身体で感じる。そうした後で脳を「あちら側」に持っていけば、広がり方は数倍に膨れるだろう。
ネットの「無限」の世界とは、脳ミソの中の無限の世界なのだ。言語など、世界の極々一面。現実は、もっと原始的に、野性的に広がっている。それを直接感じるから、本気で泣けるし笑えるんだ。
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pc's archives
「ニートの19歳の女の子」の話─現実世界の質量。
in think method, web, pc
by Ham | 3月 1st, 2008
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モニターと紙。
by Ham | 2月 25th, 2008
モニターと紙の違い。
- モニターは基本的に移動できない。移動するのは自分。対して本は場所を選ばない。
- モニターは、その中から可能性が無限に広がっているため、人は入り込んでいく。本の広がりは、その本の中と脳。
- モニターからはすぐに発信できる。本は、その内容を脳メモリに預けるもの。
PCは極めて便利なのだが、そこから世界に向けて広がっているため、すぐ隣にいる人と断絶してしまうのだ。広がっているようで、身体的には閉じている。脳は経験するが、身体経験は得られない。
映像を作る者の身から、たまにおこってしまうゲシュタルト崩壊的なものなんだが…。映像は、ただの光の組み合わせ。モニターから得られる情報は、結局0と1の情報の統合体。なんじゃこりゃ、って思ってしまうときが多々ある。
本ならばまだ有機物なんだが、モニターに映ってる情報なんて、なんか一粒一粒の色の塊じゃないっすか。
いや頭ではわかってるし、感覚的にも理解してる。全体は部分の総和にあらず。そこに意味が生まれて人の感覚、考えに響く。それを理解した上で感覚に従う。
わかっちゃいるんですがねー、モニターでばっかりモノを見ていると、そのゲシュタルト崩壊が特に激しく起こってくるんですよ。
もっと、身体への感覚が欲しくなる。PCから得る情報は、経験するのが脳ミソだけなんだ。
本を読むときは、より広く環境を選べる。ゴロ寝したっていいし、どこへ行ってもいい。人とくっついてたっていいし、それこそ舐めたり嗅いだりしながら読んでもいい。
しかしモニターは、どうにもその中だけに入っているというか閉塞的というか脳ミソ直結というか。
すぐそばにいる人とも、別枠にいるような気がしちゃうのだ。
人といるときに携帯いじってるのが当たり前になっちゃって。なんか、目の前にいる人とつながってる感じが薄れてるというか。
携帯は発信能力は弱いが、コミュニケーション能力は強い。
ただ、電気を通じての交流は、どうにも脳ミソ的なんです。一次的でなく、いったん文や絵をはさむ。発して、発した「モノ」があって、受け取る人がいる。
二次的な交流。その人という「個」と直接交流している感じとは少し違う。個の中の「一部」度が上がっている。
強く思うのは、目の前に人がいるときは、その人を大事に考えましょうということです。
家にいるときは、必要最低限以上はPCの前に座らないようにしましょう。
















