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そして僕はRSSリーダーを使うのをやめた。

in web
by Ham | 5月 12th, 2008 

300以上あったRSS、1日ほって置くと1000以上のエントリーが溜まっていたRSSリーダー。使うのをやめました。

っしゃざまみろ、これでwebの最新情報なんてまったく入ってこないぜシャットダウンだこちらから!!!( ゚Д゚ ) もう踊らされねーぞ畜生! 受身でいてはいけない? 自分から奪いに行け? はてな村が好きそうな響きだが、RSSなんて使ってた日にはこの上なく受動的で、真綿で首絞めてるもんだ本当! 自分が受身だという認識が無いから、テレビ以上だぞあれの危険性は。

PCの前に座ってるだけで、いろんなことがわかった気になってくる。はっきり言って、そんなことに時間使ってる場合じゃねーだろ!!! そんな密度の薄い情報の消化に時間かけるくらいなら、今すぐ駅前の本屋に立ち読みに行け! 映画館に入れ! 美味いもん食え! 雑貨や洋服屋に飛び込め! 旅に出ろ! 効率だライフハックだ何だの前に、目の前の仕事や生活に本気で打ち込め!

便利なだけが全てじゃない。効率的にすることで、気づいたら受身のルーティンがどんどん増えていく。大事な、「感覚」の時間を圧迫する。何かがおかしいと感じた。情報を追いかけているつもりが、いつの間にか追われ、踊らされる側に回っていた。フィードを消化しなくては、不安にすらなる自分がいた。効率教の立派な信者になっている自分を感じた。

そして僕は、便利な便利なRSSリーダーを使うのをやめた。

追うのか追われるのか。

by Ham | 5月 12th, 2008 

blogの更新が滞り気味。そういう時って、得てしてそのですね、何か安定しきっちゃってるときです。

こりはいかん…。いや何の問題もないんですよ、生きるのに支障はない。たぶんすごく幸せなんだろうし、客観的に見ても多分結構いろいろ恵まれてる方だとも思う。変化し続けないと生きる気力ゲージが減っていく自分がおかしいんだ。

 


根っからの体験型な自分。痛い目みて大泣きするまでなんもわかりゃしない。いろんな人の話を聞いて、ネットでいろんな人の心のつぶやきを読んでみて。それぞれの人がそれぞれの人なりに導き出したルールを読んで、なるほどなぁと納得して。そんでも、やっぱり自分で味わうまではなんもわかんないんだな、これが。

 


最近ちょっと、webの最先端を見るのに興味が薄れてきた。いや、おもしろいしものすごくためになるんだが…、情報を追いかけるのに少し飽きたらしい。毎日自動的に増えるRSSのフィードを処理するのも面倒くさい。

webは、必要な情報を自分で選んでいるつもりになれるが、実際のとこはほとんど選べていない気がする。テレビよりはまだマシだろうが。まるで狭い村の中で、声のでかい人の意見を聞かざるを得ない状況に追い込まれているような気もする。「はてな村」とはうまいこと言ったもんだと思う。たまにテレビを見ると、「あれ、なんかこっちの方がまだおもしろくないか?」ってくらい、webが微妙に感じてきている。

webリテラシー、高けりゃ幸せなのかといわれれば、なんか逆に追い立てられているようであまり幸せでもないような気もしてきた。まあ無さ過ぎるのもちょっと困りものだが。人のオススメもいいんだが、もっと自分で映画や本を選びたいかな。「話題」に必死でついていこうとしすぎただけかもしれない。

 


ちょっくら情報源のポートフィリオを見直そうか、なんて、またなんだか妙に「理」をこねくりまわしたようなことを考えてしまったりもする。いいじゃないか、別に合理的じゃなくたって。

いいものをいっぱい見るのは必要なことだ。鮮度のいい情報をいっぱいインプットすることも大事。でも、そのせいで情報に追い立てられるようになったら今度は思いっきり本末転倒もいいところで。ちょいと立ち止まろうかとも思う。もうちょっとフラットに。webを発信専用にしてしまうというのもいいかもね。

常に最新情報を入れないと不安になるなんて、これはもうちょっとした精神疾患レベルだ。声のでかい人より、そばでぼそぼそ言ってる人の話を聞きに回る方が楽しいかもしれない。権威指向は、こんなところでも働いてる。

 


まあ何だかんだいって、追われるよりは追う方が好きだということです。次々に求めていく。何かに追われてそれに縛られるようになってきたら、ちょっと立ち止まってどこかほかに追求したら面白そうなものはないか探しに回ってみた方がいいかもしれない。そんな気がする。

海の中で新陳代謝を繰り返す個体。

in blog, web
by Ham | 3月 12th, 2008 


ウェブがウェブで完結するような世界はもう伸びない。
これからはリアルといかに繋がっていくかが問題になって来る。

(via:ウェブ時代は終わった - hasenkaのメモ)

僕が中高生くらいの頃はまだ、インターネット=オタクの認識が強かった。
家に引きこもって、一人でカチカチしてる印象。普段はうじうじしてしゃべれない奴が、ネットの中で居場所を探す。そんな閉鎖的でネガティブな印象。
その後、目聡い人間がこれは使える!と考えてどんどん流入。使い方次第で莫大な「量」を生み出すツールとして、webが一気に拡大して世界を変えた。

ITを使えば使うほど勘違いしそうになるのだが、PCもwebも、これはあくまでもツール。
別の世界じゃない。箱庭ですらない。これは、原始的なテコとなんら変わりない「ツール」なんだ。サルが放り投げた棒が、そのまま進化しただけなんだ。
この中に新しい世界ができてるんじゃない。残念ながら、人間にはまだ肉体があるんだ。思考はwebの中に放り込めても、五感は放り込めない。友人や恋人と連絡は取れても、直接出会うことはできない。買い物はできても、腹は膨れない。
webは、人間の思考や情報をストレージして繋げていくだけのツールでしかない。webの中に、世界は無い。ただ単に留め、繋げ増幅する道具。人の存在は、現実の中にしかない。

ゲームや買い物といった、現実世界で楽しむことがPCというこのハコのなかで擬似的にできてしまうから、webは第二の現実だなんていう勘違いが始まってしまうんだ。
webの本来は、情報のストレージと発信。そしてそれをリンクさせ、情報の力を爆発的に増幅させる。その力がすさまじいんだ。

だから、個人がblogを書くということは、ただ日記をつけているという以上に計り知れない意味がある。
個人の発した情報は、webの広大な海の中で他の情報とリンクし、その意味ははるかに増幅される。
blogのエントリーというのは、それ一つでは完成しない。リンクを重ねることで、年月とともにその意味はどこまでも膨れ上がっていくのだ。

巨大な海の中で、一つ一つの個体が水を吸収し、その中で熟成・増幅され、豊かになって水が海に戻る。その海は、個体がその中にいる限りどこまでも豊潤になって行く。webに対しては、そんなイメージを持っている。
blogのエントリーは、完成している必要は無い。外から得た情報が自分の中で化学変化したものを返せばいいのだ。ただ、より価値のある情報をより多く海に流すものが重宝されるのは当然だが。
webの海の中では、自分もそのストリームに触れる一員だ。自分で発した情報に自分で触れ、感化される場合もある。いやむしろ、個体単体としてはその意味合いの方が大きいかもしれない。そしてまた吸収し、吐き出す。繰り返し、繰り返し。
そうして個体は消失するまで変化していく。しかし、個体が消失しても、海はそこに残るのだ。

【関連】
表現への責任の取り方。 - HamNote
ブログを書くこと自体の意味。 - HamNote
「ニートの19歳の女の子」の話─現実世界の質量。 - HamNote
モニターと紙。 - HamNote
ウェブ時代は終わった - hasenkaのメモ
エントリが書ける時 - インターネットの真の姿とは
頭に浮かんだ瞬間が「エントリを書ける時」 - 明日は明日の風が吹く

ブログを書くこと自体の意味。

by Ham | 3月 5th, 2008 

いつか振り返るためにブログを書く - 忘却防止。」を読んで。

エントリーには概ね同意で、自分的なプラスアルファがあるので書きます。前々から整理しようと思っていたことですが、今回まとめて吐き出すことにします。

ブログを書く理由で最も大きいのは、思考の抽象化。
いつでも頭の中でぐるぐるしてる混沌があって、それは整理して吐き出さないことにはどんどん溜まっていき、やがて思考の流れが滞ることになる。
居酒屋でクダをまいていると、いろいろ考えていたことが徐々に一本の筋にまとまっていったという経験は誰しもがあると思う。目の前にいる相手には失礼だが、まあその辺は酒の席だ。考えてる由無しごとを、相手に聞いてもらうというよりは、ひたすらに吐き出す。
言葉にするということは、「なんとなく」感じていることを固めるということ。それが、しゃべりでなく文章としてまとめるとなると、その整理はさらに進む。
その時に考えていることをいったん圧縮させるということでもある。言葉は、人それぞれが持つコンテクストによって受け取り方が変化するが、少なくとも自分にとってならば、感じた当時の感覚を呼び起こすことができる。
いったんブログに圧縮して記録しておくことで、自分の思念の上書きを防止する。いわば、想いの圧縮とバックアップだ。

そのことにより、過去の自分との対話が行えるようになる。「考えが浅い」と思うことも多々あるが、それ以上に、「この想い見失ってる」と感じるときの方が多い。
熱い想いや強いモチベーションを持っていたはずなのに、いろんなことをルーティン化するうちに徐々に薄まってくる。整理され、効率はどんどん上がっていくのだが、それをする原初の理由は見失ってきたりしてしまう。過去の自分と話してみると、薄れていた強い動機を喚起させてくれる。

最近自分のブログを、1エントリー1テーマに絞るようにしている。以前はもう勢いだけ筆任せで書いていたが。
1つのテーマについて思考を大きく膨らませて、それをつなげていく。散り散りに考えるよりも、1つのテーマでみっちり考え、文章に落とし込めるまで思考を純化抽象化する。そして、膨れ上がらせた個別の思考をつないで、さらに思考をマッシュアップする。
ブログの素晴らしいところは、リンクを辿って自分の思考の軌跡を辿ることができ、さらに他の人の思考へとつなげていけるところ。
情報も思考も、他者の下でさらに広がり、マルチに処理されていく。自分の考えを膨らませるのは、自分だけじゃない。
人それぞれ、育ってきた背景が違う。個人のノートでは、せいぜいがその人の成長段階によるもの。時期による考え方の違い程度でしか広がらない。一次元で、一方通行なもの。
それが、ブログは相互多次元で広がっていく。人というセンターを次々に経由して、一つの考えがこれまでの時代ではありえなかった広がり方をしていく。センター同士で受け渡し、そしてそのセンターはさらに学習し、思考力が世界的に底上げされていく。
差別も何も無い世界、自分で考えるんだ。それこそが思考共有のもたらす奇跡だと思うのだ。同時に猛烈な勢いで淘汰が進むことになるが、それについてはまた後日。

一つの思考を文章に落とし込む。適当な日記や愚にもつかない考えをだらだら書くときもあるが。まあそれは楽しいからなんだが。
考えを文章にするうえで、「自分はこうでこうで…」と書いてるうちは、まだその考えの抽象化は進んでいない。まだ具体的であって、汎用性の無い考えだ。それはそれで構わない。
抽象化され、洗練された思考の公式をそのまま自分に当てはめるのは危険だ。「自分の場合は…」が充分に積み重ならないと、その考えは独りよがりな部分が残る。帰納と演繹を繰り返して洗練されていくのだ。
これまで歴史の中で長い長い時間を掛けて行われてきたことが、ウェブ、ブログの登場で急速にスピードアップされた。文系理系そんなもの関係なく、モタモタしていると振り落とされる、とんでもない時代に突入している。

すべての人が、それぞれに異なる経験を持っている。同じ文章を読んだって、そこから想起される思念は異なってくる。
自分にとって当然であることが、他の人をハッとさせる金言となる場合もある。だからおもしろいのだ。
考えがかぶったから自分は発信しない、はおかしい。その考えを自分というフィルターの中をめぐらして、自分という壺の中で熟成させて、自分というメガホンから発信する。その中で、必ずその人独自の経験から来る個別の考えが映りこむようになる。
とにかく大量にインプットとアウトプットを繰り返す。かぶろうと何だろうと、とにかく膨らませて、できればなるべく整理して、世の中のストリームにまた戻すのだ。
それを自分から行う者は、さらに思考と発信の経験値を増していく。それを行う現在最高のツールが、ウェブ、そしてブログなんだと思う。

だから、続けていこうと思う。

【関連】
いつか振り返るためにブログを書く - 忘却防止。
三多三上。 - HamNote
思考を人に話す3段階。 - HamNote
文章による抽象化。 - HamNote
収穫逓減の法則。 - HamNote

「ニートの19歳の女の子」の話─現実世界の質量。

by Ham | 3月 1st, 2008 

ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話」に対していろいろな論議が起こっている。
いろいろな意見があるが、「web」と「現実」の違いについて述べているものが多い。そうしたものをふまえた上での二次意見で申し訳ないんだが。

「あちら側」と「こちら側」(from「ウェブ時代を行く」)の一番大きな違いは、質量だ。「こちら側」には、あらゆる情報に直接触れられる質量がある。
脳ミソにプラグぶっ差して快楽中枢を刺激し続けられるならそれでもいい、不労所得さえあればずっとPCの前に座っていたい、そう思ってた時期が僕にもありました。残念ながらそこまで単純じゃなかった。
「あちら側」に脳ミソや経験を託すと、実際に触れている空気が動かなくなる。
「ニートの女の子」が感動して泣いたのは、目の前にある絶対的な「質量」を、身体で感じたから。情報が形として目の前に氾濫している。

PC内部での経験は、脳ミソ的でしかない。実体験に基づいていなければ、感動も触感も想像で作られた表面的ものでしかない。内部から自生したものでなく、外から与えられたものだ。
実際に身体で感じるから、想像の翼は広がっていくのだ。本屋に入ったとき、感じる空間の感触。外から中に入ったときの空気の変化。新しい本の臭い。静かなざわめき。本を選んでいる人、立ち読みしている人、整理している人、そうした人それぞれの想いが自然と発散され、その空間の空気を作り上げる。それだけは、amazonでは絶対に作り出せないものだ。
視覚、そしてこれから進化して聴覚、嗅覚、触覚それぞれに訴えかけることができたとしても、そこにいる人々の雰囲気から自然にかもし出される空気は作れない。
「あちら側」の経験はどこまで行っても脳ミソ的。「こちら側」の身体感覚があるからこそ、初めて広がる世界。人の感覚を刺激する文章やコンテンツが発信されていたとしても、受け取る側にそのコンテクストがなければ響かない。

まず歩く。動く。触れる。自分の脳ミソだけで完結しているわけではない「世界」を身体で感じる。そうした後で脳を「あちら側」に持っていけば、広がり方は数倍に膨れるだろう。
ネットの「無限」の世界とは、脳ミソの中の無限の世界なのだ。言語など、世界の極々一面。現実は、もっと原始的に、野性的に広がっている。それを直接感じるから、本気で泣けるし笑えるんだ。

【関連】
梅田望夫氏「ウェブ時代をゆく」読了後ブログ観。 - HamNote
ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話*ホームページを作る人のネタ帳
404 Blog Not Found:NEET = Network-based Education, Employment, and Training
「ニートの19歳の女の子を(ry)泣かれた」を理解してみたよ - ChaboのFF11日記+
「ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話」は現時点のコンピュータの限界を暗示している? - 計算機と戯れる日々


書いてる人:Ham
映像作ったりweb作ったりして生活してる人です。レビューとかブックマークとかあっちこっちで書いてるので、このHamNoteは主に考えをまとめる用です。




ぶつぶつつぶやいてるとこ。ぐちったーとも言います。




twitterと同時投稿中。チャンネルがいい感じ。




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発信してる情報全部まとめ!




言わずもがなの。自チャンネルはインスピレーション用です!




気になった画像保管庫。低俗系は減らすように努力してます!><




読んだ本。最近電車通勤なので、本はいい感じに進みます。




最近のブックマーク。デザインチュートリアルやお役立ち系が多いかも。




ラーメンは浪漫です。現在、池尻の「侍」がナンバー1。


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